生まれ変わる耕作放棄地

(この話は、望ましい将来像を語ったものです)

5月、ゴールデンウィークに井口は、岐阜県中津川市の実家に戻っている。木曽路の入り口にあたるこの地域は、周りを山に囲まれ、ちょうどこの季節、山々は新緑で青々としている。南の方角には、この地方と同じ名前を持つ山、恵那山が聳えている。

「おい、もう田植えをやっとるとこかね。」と田舎言葉に戻った井口が、自宅の池の鯉にエサやりに来てくれた昇叔父に、縁側に腰掛けながら話しかける。「おお、昔と違って、今は田植え機で、苗の小さいうちから植えるで、今頃やるとこよ。」と、当たり前だというふうの昇叔父。御年85歳だが、まだかくしゃくとしている。
井口が子供のころは、6月の梅雨のシーズンに、家族総出で田植えをやっていた。当然その頃は、手植えで、紐の付いた杭を田んぼの両端に刺して、みんなで横一列に並んで、苗を植えていた。その頃のメンバーは、兄弟しか残っていない。

「あれっ、裏のぬかばたの田んぼが、耕されとるに。どうしたの?」と驚いたように井口が尋ねる。「ああ、おじいとおばあが死んでから長いことほったらかしにされとったが、日本がTPPに参加するのに合わせて、耕作放棄地の強制集約が行われて、今は、中津川市内の農業法人が引き受けて耕作しとるとこよ。」と訳を語ってくれた。「ほう、こんな田舎にもTPPかい。世の中変わったね。でもよかったわ。あそこの田んぼだけいつも草ぼうぼうで、うちの田んぼに草の種が飛んできて、草取りが大変になっておったでな。」と歓迎ムードの井口。

ごたぶんに漏れず、この田舎でも農業の担い手が減少して、年老いた夫婦が亡くなると、仮に子供がいても、先祖代々続いてきた農地と家も後を継ぐ者がいなくて、田んぼもろとも荒れ放題になっていた。土地の値段は大したことはないが、法律があって、簡単には売買、転用ができないでいた。それが、全国の農地の1割以上が耕作放棄地となり、滋賀県一県分も相当する面積になっていたことと、第2次安倍内閣になってTPPに参加することになって、国内の農地・農業改革が急務となって、法律改正、放棄地撲滅にと取組が始まったのである。

幸い、井口の田んぼは、10年以上前に父親が亡くなってすぐに、近くの友人の木戸さんにやってもらえることになったので、父親が残した農機具を使ってもらいながら、耕作を続けてもらっている。「それで何を作るの?」と尋ねると、「なんとかっていう野菜を作るらしいぞ。名古屋辺りに出荷するそうや。」と車で約1時間の大消費地向けの近郊農業となるらしい。

「お化け屋敷も取り壊されて、眺めがよくなったね。」とすっきりした表情の井口。「おお、住む人のおらんようになった家も、家族の了解を得て、市で取り壊しを進めとるとこよ。昔の家は耐震性が悪いでな。東南海地震なんかくれば、ひとたまりもないわ。」と昇叔父。「この家は親父が亡くなってから簡易耐震補強をやっておいたで、いくらか持つと思うけどね。」と井口。自宅の近所には、古い家を取り壊して建て直した家や、田んぼをつぶして新しく建てた家、古くからそのままの家の3種類が混在している。家の数だけ見ると、昔に比べて増えているが、だいたい、古い家は、住む人がいなくなっていて、住人の数は、子供の数が減ったこともあり、あまり変わらない。

「取り壊した後は、どうするの?」と井口が尋ねると、「まずは更地にして、家を建てたい人があれば、市が仲介して土地ごと売るか、25年の定期借地権で借りて、そこに家を建てられるようにしとるわ。ほれっ、前の勅使河原の古い家も取り壊して、中津におった人が買って新しい家を建てたわ。最新式やで、地震にも強いぞ。」と昇叔父。「そりゃよかったに。まあ、この辺りの田んぼは江戸時代に開墾された土地で、恵那山の麓から用水を引いて、棚田を整備してきたところやで、治山・治水の観点からも、農地は農地、宅地は宅地で使った方がいいわな。」と、遠く恵那山の方に目をやって、郷里のよい方向への変化を歓迎しながらつぶやくように語る井口であった。

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