(この話は、10年後の望ましい将来像を語ったものです)

「老後はこんな施設に入れたら」
5月、草木の萌える香りが爽やかな風に運ばれてくる季節。井口は、日産自動車時代にお世話になった、元上司の大矢さんを妻とともに見舞った。いつもやり取りしている年賀状に、「昨年、長年患っていた足を悪くして、下記の施設に入りました。」とあったのだ。急病ではないようだったので、仕事が一段落するシーズンを選んで、予め訪問の連絡を入れておいた。ついにあの意気軒昂な大矢さんも老人ホームに入る年頃になったわけだ。

その場所は、小田急線のとある駅からタクシーで5~6分ほどの高台にあった。施設の玄関口に降り立つと、立派な建物で、一見マンション風である。施設という言葉に不釣り合いな建物に一瞬戸惑う。

玄関のインターフォンを押すと、女性の声で「どちら様ですか?」と聞かれ、自分の名と訪問先とを告げると「お待ちしていました。」とドアを開けてくれた。受付け台帳に記帳して、大矢さんの部屋に向かった。515号室のチャイムを鳴らすと、「どうぞ!」と明るい大矢さんの声が聞こえた。ドアを開けて入ると、車椅子に乗った大矢さんが笑顔で待っていた。「いやあ、よく来てくれたね。こんなところに。」と張りのある元気そうな声。「いや、年賀状に施設に入られたと書いてあったので、もっと早く来たかったんですが、いろいろ立て込んでいて。」「こんにちは、由紀子です。お久しぶりです。」「ああ、由紀子さん、ほんとに久しぶりだね。昔の面影がそのままだね。」と家内とも挨拶を交わす。

「いやはや、僕はほら、日産時代から痛風持ちだったろ。薬も飲んでだいぶ気を付けていたんだが、再発しちゃってね。それで足を庇って歩いているうちに躓いて転んで、大腿骨骨折をやっちゃたんだ。」と大矢さんがいつものように立て板に水の弁舌で、いきさつを話し始めた。「それは大変でしたね。」と井口は相槌を打ちながら聞いている。「その骨折は、病院に入院して2ヶ月位で治ったんだが、足が弱っちゃってね。もう僕も85だからね。車椅子生活になっちゃったんだ。女房は元気だが、「あなた、車椅子じゃあ、家で介護しきれませんよ。」と言われて、どうするかと思って、医者に聴いたら、「最近は、こういうところもありますよ。」とここを紹介されたっていうわけなんだ。」とことの顛末を話してくれた。

「大矢さんがわざわざ入ろうというところですから、さぞいいところなんでしょうね。」と水を向けると、「うん、君、僕も最初は、「施設になんか入るもんか。」と思っていたんだが、女房と、ものは試しと見に来てみたんだが、なかなかいいじゃないか。それで、よしこれなら、と入ることにしたんだよ。」とまんざらでもなさそうな様子である。「へぇ、どんなところがいいんですか?」と由紀子が尋ねる。

「まず、ほら、病院くさくないだろ。リゾートホテルのような感じじゃないか。窓からの眺めもいいし、晴れた日には、あっちの方角に富士山が見えるんだよ。」と窓の外を指さす。「ああ、あの方角ですね。」と井口も頷く。

「あと、共用施設がいろいろある。僕の好きな麻雀部屋もあるし、カラオケ部屋、許可を得れば酒も飲める。麻雀なんか、以前よりよくやっているよ。指は動かしたほうがいいからね。朝昼晩の飯は、通常ついているけど、余分を払うとスペシャルメニューが頼める。季節ごとにメニューも替わるし、レストランには、個室もあって、家族や友人が来た時などは、車いすのままその個室に入って会食できるからね。もう僕なんか、顔パスだよ。」「へぇ、ほんとにホテルみたいですね。」と井口。「うん、温泉もあるんだ。」「えっ、温泉まであるんですか?」「それに露天風呂も。」「えー、ほんとですか?」と驚く井口。「温泉だけど、僕みたいな車いすの人でも温泉用の車いすに乗り換えて入れるんだ。泉質は、リウマチなど足関係にいいみたいね。」

「あと、シアタールームがあって、超高画質で映画やドキュメンタリーが見られる。ハイビジョンなんか目じゃないよ。すごくリアルで、まるでその場所に行ったような気になるね。元気なうちは、世界遺産もいくつか回ったけど、足を悪くしてがっかりしていたけど、ここに居ながらにして世界遺産に行った気分になれるね。毎週、一つずつ楽しみにしているんだ。」と施設自慢である。

「趣味の部屋もあってね。週に一回、水墨画を習っているんだ。ほら、そこに掛かっている絵あるだろう。枯山水みたいなの。それ、僕が描いたんだ。まだへたくそだけどね。」と部屋の壁に掛かっている額に入った絵を指さす。確かに、バランスがいまいちだが、水墨画の雰囲気は出ていた。「なかなかの腕前じゃないですか。」と井口が持ち上げて見せる。

「というわけでさ、自宅にいるより、楽しいわけよ。」と嬉しそうに話してくれる。「それはよかったですね。私はまた、施設に入ったということで、大矢さん、さぞがっくりされているんじゃないかと思って、元気づけに来たんですが、杞憂でしたね。」と笑う。

「君、「こんなに設備が整っていると、さぞ、お金が掛かるだろう」って、思うだろう?それがそうでもないんだ。入所金は、300万円位取られるけど、ベースの料金は、毎月15万円だからね。年金でおつりがくるよ。それで、三食昼寝付。基本の世話はしてくれる。もちろん、趣味やスペシャルメニューは別料金だけど、それは、僕のヘソクリからだしているから、問題ない。」と問わず語りに語ってくれる。

「トントン」、「大矢さん、検診の時間です。」と言って、介護士さんが入ってきた。どうも顔の様子からすると東南アジア系の人のようだ。「ベトナム人のグエンさんだよ。」「こんにちはー。」とあいさつをする。「ふだんのことをやってもらうには、全然問題ないね。日本も若い人が少ないとか言ってないで、東南アジアの人たちとかもっと来てもらえばいいんだよ。」と大矢さん。日産時代とはずいぶん、考え方も変わったようだ。「大矢さん、いいところに入れてよかったですね。」と井口。「グエンさん、施設長に頼んで、井口さんご夫妻を施設見学に案内してやってよ。」と大矢さん。

施設長のご好意で、さきほど大矢さんに教えてもらった施設を一通り見学させてもらう。老人施設をたくさん見てきた由紀子も、「これは、いい施設だわ。」と感心している。一通り見終わった後、大矢さんの部屋に戻った夫婦は、見学させてもらった施設の素晴らしさを褒め称え、さらに小一時間話をしてから暇乞いをすることにした。

駅までのタクシーの中で、「こういう施設なら、僕らも入りたくなるかもね。」とお互い顔を見合わせる夫婦であった。
2025年には、65歳以上の人口が3,500万人以上、うち75歳以上は2,000万人以上となっている。超高齢化社会の中で、高齢者の介護問題、年金などの費用負担、本人の安心と満足、不足する介護者の充足、家族の同意と協力等複雑な要因の解を求めて、いろいろな試行錯誤が続けられているのである。