(この話は、10年後の望ましい将来について語っているものです)


6月、もう少ししたら梅雨に入ろうかという蒸し暑い日、ここは奈良の東大寺大仏殿前の南大門である。井口は、前日ある会社での2泊3日の管理職研修の講師の仕事を終えて、「久しぶりに大仏様でも拝んで帰ろうか」と、荷物は奈良駅のコインロッカーに預けて、ぶらぶらと散歩している。門の両脇には、運慶・快慶作の仁王像が高く聳えている。向こうには、大きな大きな大仏殿が見えている。木造建築世界一の大きさである。

金髪の外国人観光客ペアが、きょろきょろしている。「ああ、写真を撮ってもらいたいんだろうな。」と気づいた井口が彼らに歩み寄ろうとすると、脇から制服を着た中学生と思しきグループの女子生徒が先に近寄って、”May I help you?”(何か、お困りですか?)と声を掛けた。すると、そのペアは、”Yes, would you take a picture for us?”(写真を撮ってもらえますか?)と応える。先手を取られた井口は、「仕方ない、それじゃあ、女子中学生の英語のお手並み拝見と行くか。」と心の中で呟いて、その様子を見ていることにした。”OK, what would you like?”とくだんの女子生徒も身振りを交えて流ちょうな英語で返す。

大仏殿をバックに「パシャ!」とデジカメのシャッターを押してあげた後、その女子生徒は、”Is this OK?”と撮ったばかりの写真を液晶画面で確認している。”Yeah, very good! Thank you very much.”と外人さんはお礼を言っている。話はそこで終わるのかと思ったら、”Where are you from?”(どちらからですか?)と今度は他の中学生が問いかけた。”We are from Canada.”(カナダからです。)なかなか積極的な会話である。そして、そのカナダ人のカップルと中学生のグループは、そのまま英語で会話しながら大仏殿の方に近づいて行った。

「へぇ、最近の中学生は、英語が喋れるようになったんだなぁ。」と感慨深げな井口の表情。自分の活躍の機会を逃した悔しさも少し滲んでいる。

大仏殿を見学し終わったころ、くだんの中学生のグループが外国人観光客と別れたようだったので、今後は井口の方から近づいて行って、「やぁ、君たち。さっきから見ていたら、外国人観光客と英語で流ちょうにしゃべっていたじゃないか。英会話は、どこかで習ったのかい?」と尋ねてみた。すると、先ほどの女子学生が、「ええ、学校の英語の授業で。」とすんなり応える。それでみんな頷いている。「へぇ、中学校の英語の授業だけで、あんなに喋れるようになるのかい?」と昔自分が受けた中学校の英語の授業を思い出し訝しがりながら、尋ねた。すると、「ええ、私たちの学校には、学年に一人外国人の先生がいて、英語で授業をしてくれるので、だんだん英語が話せるようになりました。」「へぇ、学年に一人も。」「ええ、それに学校で英語のスピーチコンテストや自由研究の英語でのプレゼンなどもあるので、みんな英語が喋れるようになります。」「ええ!スピーチやプレゼンも英語でやってるの?そりゃすごいねぇ。」と井口は少々驚いた。確かに英語を母国語とする英語教師を増やすという話は聞いていたが、学年に一人いて、スピーチやプレゼン指導までやっているとは、日本の英語教育もずいぶん変わったものだと思った。「それに、今は、インターネットでオーストラリアの提携校と週に一度パソコンを使ったテレビ会議をやって、クラブ活動や研究について情報交換しているんです。」「ほう、そりゃ、本格的だね。」「英語でやるセッションと日本語でやるセッションとがあって、双方言葉の学び合いをしているんです。」とのことである。

この話に感心した井口は、さっそく携帯端末で、この子たちの学校のサイトを検索してみた。すると、学校所属の外国人先生をはじめ、英語での活動や、生徒の英語テストスコア等が見られるようになっていて、英語教育に熱心なことがうかがえた。

実は、このように英語教育に力を入れているのは、彼女たちの学校だけではなく、文科省の指導と予算で、全国の2万件の小学校、1万件の中学校、5千件の高等学校全校で行われているのだった。

おかげで、学生の英語力は、昔に比べ格段に上がり、いまや、海外に留学する学生も10年前の5倍に増えているとのことである。英語の喋れなかった日本人の英語の先生も、ネイティブの外国人教師に英会話を教わって、彼らも英語をだんだんしゃべるようになってきたとのことである。

井口は、10年前に立教大学でMBA Englishという科目を担当して、経営学部の大学院生に教えていた頃を思い出した。「あの頃は、英語教育に力を入れている立教大学ですら、日本人の学生の英会話力は、中国や韓国などアジアから来ていた留学生よりも劣っていたからなぁ。」そして、思い直したように「修学旅行の中学生でこれだけの英語が喋れるんだから、大学生レベルなら、海外の学生とディベートもできるようになっているだろうな。そしたら、企業に就職しても、英語が苦手とかなんとかいうような社会人はもういなくなっているんだろうな。」と、かつてのオフィスでの光景とのギャップを想像して、ほくそ笑むのだった。